柳沢剛
立憲民主党・無所属 · Japan
“ありがとうございます。 被災地の議員の一人として、私は様々な震災遺構、震災伝承施設を訪れておりますが、先週、改めて、宮城県山元町の震災遺構、旧中浜小学校を訪れました。山元町の現在の人口は一万一千人余り、東日本大震災では六百三十七人が犠牲になりました。震災遺構となっている旧中浜小学校の校舎は、児童や教職員、地域の人など屋上に避難した九十人の命を守り、その災害を今なお伝える校舎です。見学通路からは、押し寄せ、通り抜けていった津波被害の痕跡が、そして、寒さと余震の中、子供たちが一夜を過ごした倉庫が被災したままの状態でそのまま保存されています。 校舎と海岸との距離はおよそ三百メートル、津波の第一波、第二波の後、第三波は、一波、二波より更に高く、屋上から見えたそうです。もはやこれま…”
“校庭の南側に小さな一の沢川という川が流れていますが、その川を周りの陸地よりも早く津波は遡上して、回り込むように南の校庭側から校舎に入ってきて、北側に抜けていったそうです。 津波が来る方向は海側からだけではない。川はもちろん、その土地の地形により、ぶつかった反射波と引き波が重なり、時間差で思わぬ方向から津波が襲ってくることがあります。宮城県の多賀城市内では、この思わぬ方向から来た津波により、多くの犠牲者が出ています。 現場に行くことによって分かる、現場に行ったからこそ理解できることがあります。中浜小学校には、ここ三年間、毎年二万人以上の人が訪れています。人口の二倍近い人たちが訪れていることになりますが、このうち、去年見学に訪れた学校は五十四校、しかし、多くが宮城県内の学校で…”
“このとき中学三年生だった生徒が、去年の元日、能登半島地震が起きたとき、大学生や専門学校生、社会人となっていて、震災遺構の中浜小学校で見聞きしたことを思い出し、自宅や避難所で活躍、ボランティア活動にも率先して参加していたそうです。 このような震災が自分の住む町を襲った際、全く知らないことではない、見聞きした経験、そのことを真剣に考えたことがあるという経験は、いざというときに役に立ちます。ぼうっと震災遺構を見学しても忘れてしまうかもしれませんが、人から直接語りかけられ、自分のこととして真剣に考えた場合、そのことはしっかりと記憶に刻まれると思います。 震災遺構での様々な説明をしてくれる人を語り部といっていますが、中浜小学校はこの語り部のクオリティーが非常に高い震災遺構です。珠洲…”
“おはようございます。立憲民主党、柳沢剛です。 本日は、このような貴重なお時間をいただき、ありがとうございます。この委員会では二回目の質疑となります。よろしくお願いいたします。 二〇一一年三月十一日に発生しました東日本大震災により、東日本の太平洋沿岸五百キロに及ぶ広い範囲が甚大な被害を受けました。人的被害は、死者一万九千七百四十七人、いまだに手がかりすらない行方不明者二千五百五十六人、建物の全壊、半壊、一部損壊が合わせて百十五万四千八百九十三棟、社会資本、住宅、民間企業設備への直接的被害額はおよそ十六・九兆円と推計され、阪神・淡路大震災の九・六兆円のおよそ一・七倍以上の被害額となっております。 その惨状から、被災地では、被災の実情や教訓を伝えていくための施設が整備されており…”
“大臣、ありがとうございます。 是非万博でも、より多くの人たちが東北の地を訪れてくれるようにアピールしていただければと思います。 実は、能登半島地震で被害を受けました石川県珠洲市の小中一貫校、珠洲市立宝立小中学校の生徒さんが、二〇一五年から二〇一九年まで、修学旅行で、震災遺構、中浜小学校を訪れています。宝立小中学校のホームページを見ますと、二〇一八年四月のこととして、そのときのことが次のように掲載されています。 東日本大震災で、二次避難所までたどり着く時間がないと判断し、二階建て校舎の屋上に避難し、児童や地域住民の方々全員が生還することができた旧中浜小学校を見学しました。当時の校長先生から、そのときの様子などを詳しく説明していただきました。また、やまもと語りべの会の会長の先…”
“大臣、ありがとうございます。引き続き御支援をよろしくお願いいたします。 最近は、メモリアルとして保存はされているものの、財政負担が大きいため、音声ガイドや展示物だけという場所も残念ながら増えてきてしまっています。それはそれで仕方がないことなのかもしれません。近い将来起こると言われている災害に対して、命に関わること、安心、安全を考えれば、生きた言葉で語りかけてくる語り部の話は、未来の災害から命を守ることにつながる非常に重要なことだと思います。是非、末永いバックアップをよろしくお願いいたします。 また、十四年が経過しまして、建造物の方も年々劣化してきています。安全を確保するための施設整備をしなければならない、そんな段階に来ていると思います。復興庁としては、何か、建造物に対して…”
The complete record
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“そして、本日、野田代表からの質問にもありましたが、農林水産省では、この中山間地問題、今後、どのように考えているのか、改めて伺いたいと思います。中山間地の農家の方にも分かりやすく答えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。”
“とはいえ、そんな中でも法人化して、集約化をして頑張っている三十代の人たちもいます。宮城県の柴田町というところで、三人で現在三十五町歩の田んぼを作っている方たちは、AIやドローンを使いながら、これから四十五町歩まで増やすそうです。最近、自分で作らなくなった田んぼをたくさんの方々から頼まれるそうですが、請け負うのは残念ながら広く平らなところだけ、採算面を考え、中山間地はお断りしているという現実があります。 一方、その中山間地の農家の方から、先日、メールをいただきました。七ケ宿町という山形県境の農家の方のコメントをここで御紹介させていただきます。 平地の少ない山間地域の水田は、終戦後の食糧難の時代にそれぞれ自らが生きるために苦労して整備し、収穫に努力したものです、私たち世代にとっては大切な農地ではありましたが、農地を引き継いだ世代にとっては、労働力や生産性の面に加え、将来性においても魅力を持てない状況となってしまっているようですと、切々とつづられていました。 昨日、土地改良の質問でもありました。”
“ありがとうございます。 農業者の減少は必至です。大臣おっしゃっていただいたように、農業機材の導入など、スマート化で生産性の向上により補填していくとしましても、それを動かし、オペレートする、それは人間です。人が確実に必要になってきます。その意味でも、最低限の農業者人口の把握は必要と考えております。食料安保の意味からも、そして自給率目標の達成に向け、国内で食料を生産するのにどれだけの農業者が必要なのかを試算し、対処、対応していくことも必要だと思いますので、御考慮のほど、よろしくお願いいたします。 そして、私の地元宮城三区は、奥羽山脈蔵王連峰、阿武隈山地があり、大規模化することが困難な中山間地が多く、しかも高齢化が顕著です。七十歳以上の御夫婦で農作業を行い、娘、息子夫婦は共働き、土日祝日など休みの日に、もっと言えば、田植時期と稲刈り時期だけ手伝っているという御家族が多くなっています。現状、農業だけでは食べていけないということです。そして、そのお孫さんたちは、そんなお父さん、お母さんの姿を見ていますから、農業をなりわいにできるとは思っていないというのが残念ながら実情となってしまっています。”
“本日は、取材させていただいた方も含め、そんな宮城の方々がインターネットを通してこの農林水産委員会を御覧になっています。孫につないでもらったので今日初めてインターネットでこの委員会を見るという農家の方から先ほど電話をいただきました。 では、早速質疑に入らせていただきます。 今、少子化、人口減少に伴い、あらゆる産業で人手不足となっておりますが、農林水産業の分野の担い手不足、こちらは顕著です。そして、高齢化がますます進んでいます。農業従事者数、二〇〇〇年から現在まで、この四半世紀の間に二百四十万人から百六十万人に減っています。平均年齢は六十八歳。今後二十年間で農業従事者の減少は加速度を増し、三十万人まで減少するとも言われています。 まずは、食料・農業・農村の基本計画で、農業者をこれから将来にわたってどのくらいに見積もっているのか。あらゆる政策そして対策を立てるに当たっては、そこに携わる人たちが一番大事だと思いますので、その農業に携わる人たちの人数、目標値なり想定値を教えていただきたいと思います。十年後、二十年後、どの程度の農業従事者を見込み、目標としているのでしょうか。”
“立憲民主党の柳沢剛です。 宮城三区、仙台より南の名取市以南の四市九町で昨年初当選させていただきました。本日、初質疑となります。このような場で発言するのは初めてです。本日は貴重なお時間をいただき、心から感謝申し上げます。 初当選以来この農林水産委員会に出席させていただきまして、これまで皆さんの質疑を拝聴し、党派を超え、農林水産業に携わる人たちの思いに寄り添った各議員の皆さんの発言は、日本のよりよい農林水産業を純粋に求めての質疑なんだという印象を持っております。大臣の畜産に対する熱い思いも伝わってきました。私自身もその一助になればと強く思っているところであります。そんな視点から、本日はこの場に立たせていただきます。 私の母は、群馬県箕郷町の農家の次女。養蚕、畜産、水田、私にも農家のDNAが流れております。そして、この世界に入る前は仙台のテレビ局に勤めており、十四年前の東日本大震災の際は、ヘリコプターの生中継を始め、連日、凄惨ですさまじい被災現場を目の当たりにしてきました。そして、もちろん、その後の復旧復興も見届けてきました。”